chapterV 「Petit Sweet」 な彼女 6
「あっ、そう言えば」 郷原に連れられて営業部に出戻った萌は、早妃子の前で大きく手を叩いた。 「尾藤さんって、右手のひらにぽちっと痣かほくろみたいなものがあったような」 「どうしたのメグ?突然そんなこと言い出して」 「え?あ、さっき会社の玄関で男の人に聞かれたんですよ。この会社に『石原』って女の人はいないかって。いないって答えたんですが、その女の人、手のひらに痣があるんだそうです。で、それを思い出して。でも名前が全然違うしなぁ……」 「それって今日営推に見えた、榊シェフ?」 「そうです。あのカリスマさんです」 「榊って、例の?」 「そう、とりあえず平岩くんが臨時で担当についてる、あれよ。まだ諦めずに人探ししているのね」 結局納期的に無理という結論に達し、今回仕事の話は流れた。 だが、その際の平岩の素早い対応を気に入ったという榊は、今後何かあればこちらに頼みたいと言ってきたのだ。 榊が代表を務める会社の内容はすでに調査済で、信用はしっかりしているし、将来性もある。顧客先に入れておくには申し分ない相手だ。 ただ、なぜか榊は「石原」という女性社員がこの会社にいると言い張り、執拗にその人を探しだそうとしている。何を根拠にそう思うのかが分からない早妃子にはどうしてもそれが腑に落ちなかった。 「メグちょっとこれ、コピーしてきてくれないか」 郷原はブリーフケースから数枚の書類を取り出すと、萌に手渡した。 「ええ〜?っていいですよ。各1ですか?」 「ああ、悪いけど頼む。その代り、ご飯おごるから」 「ラッキーです!コピーで晩御飯タダなら毎日でもOKです」 「……今日だけだ」 「冗談ですよ、冗談。もう、郷原さんてば、本当に生真面目さんですね」 そう言って書類を片手にコピーを取りに行った萌の背中を見ながら、郷原ががっくりと項垂れる。 「アイツにそんなふうに言われたら、世も末って気がする」 「まぁまぁ、郷原君。そう落ち込まないの。で、メグのいないところで何か言いたかったんでしょう?」 早妃子にぽんぽんと肩を叩かれた郷原は頷いた。 「メグは嘘が下手だから、いざという時に知らない方が良いと思って。実は僕、取引先ディーラーの協賛でウチの会社が購入補助をした時に、尾藤さんの車の個人リースを組んだことがあるんですよ。その時書類に彼女の名前をもらったんですが」 確か本名は石原美幸だった。 尾藤は亡くなったご主人の姓で、それを今も通称として使ってることも話してくれた。 「銀行の口座なんかは全て石原になっているんですよ、彼女。ただ、通称は尾藤を使っているらしくて、ちょっとややこしかったのを思い出したんです」 「え?尾藤さんのご主人って、亡くなられてるの?」 「みたいですね」 「……そうだったの」 早妃子は沈痛な面持ちで、すでに帰宅していて今は空いている尾藤の机を見た。 確かに彼女は結婚指輪をしてはいるが、夫の話をしたことがない。既婚者の同僚に時折話を振られても、にっこりほほ笑むだけで、決して自分のことを話すことはなかったが、まさがあの若さで配偶者に先立たれていたとは。 知らなかったとはいえ、自分がここのところ婚約だの結婚だのと浮かれていたのを、彼女がどんな気持ちで見ていたのかと思うと、申し訳ない気持ちになった。 「だから、もしあの男が『石原』という若い女性を探しているとしたら、多分尾藤さんのことじゃないかと思うんですよ。さっきメグが言ってた『手のひらに痣』っていうのも気になるし。ただ、彼女は『ウチ』の社員じゃないですし、経緯が分からない以上、無暗に個人情報を教えることもできないですから」 「そうね。私ではそこまでプライベートな込み入った話は難しいから、ちょっと明日にでも佐東係長に相談してみるわ」 「その方がいいと思います。相手があの『カリスマ』だと、ウチはあまり強硬な姿勢にはでられないだろうし、あっちはあっちで簡単に引き下がりそうにないですしね」 「どういう知り合いかは分からないけど、あの押しの強さでやられたら、尾藤さん、たまったもんじゃないわよ」 「ウチの顧客となると、尾藤さんがいつここで彼と遭遇するか分かりませんから、顔を合わせる可能性がある以上、一応彼女にも知らせておいた方がよいでしょう」 翌日、昼休憩から戻って早々に、美幸は早妃子と共に部長の汐田に呼ばれた。 部長室に入ると、そこにはすでに佐東係長も来ていて、二人は浮かない顔で何か話をしていたようだ。 美幸たちが勧められるままにソファーに腰を下ろすと、向かいに汐田と佐東も並んで座り、ちょうど4人が膝を突き合わせるような形になる。 「尾藤君、君に来てもらったのは他でもない、顧客の一人が……いや、もう単刀直入に言った方がいいな。ル・ジャルダンのオーナーシェフで、榊コーポレーション社長の榊大輔氏が、君らしき人を探しているそうだよ」 「榊大輔?」 「何か心当たりはない?あっちはかなりご執心なんだけど」 早妃子が昨日のことをかいつまんで話す。 「いろいろ探りを入れているみたいだけど、彼、不思議なことにあなたの本名をちゃんと知らないみたいなのよね。『いしはらみゆき』を探しているって。尾藤でない名字を知っているわりに、名前を間違っているなんて、ちょっと不自然じゃない?」 美幸の本名は「いしはらみさち」だ。 普通は「みゆき」と読ませることが多い漢字だが、彼女の両親はあえて「みさち」と仮名をふった。 学生時代もよく読み間違えられたので今ではすっかり慣れっこで、むきになって訂正することもないが、自己紹介をする時にはちゃんと「みさち」と名乗っている。だから早妃子も萌も、彼女が「みさち」であることは知っていた。 「ル・ジャルダンですか?」 一応世間の話題に疎い美幸でも、それが高級なフレンチレストランであることくらいは知っている。だが、そこのシェフの榊と聞いても今一つぴんとくるものがなかった。 「何か仔細があるのなら、あえてそこまでは聞かないわ。でも、ウチに関わっている以上、彼と会う可能性もあるから、念のために伝えておくわね」 「はい。わかりました」 佐東の言葉に頷いたが、その時点ではまだ、美幸は事態がよく呑み込めないでいたのだ。 「本当に覚えがないの?」 「そんなお高いところ、私には縁がないですから」 早妃子と二人、廊下を歩きながら、考えこむ。 「あ、そういえば、メグが言ってたのよ」 そう言って早妃子は美幸の手を取ると、手のひらを開かせた。 「あ、やっぱりあるじゃない。榊氏、探している『石原』嬢の手のひらに痣があるって知ってたらしいわ。で、メグがそれに思い当たったの」 それを聞いた美幸は一気に血の気が引くのを感じた。 確か、先日ビルの入口であの男性に出会った時に、それを見咎められたのを思い出したからだ。 まさか、あのビジネスマンのような彼が榊シェフという人なの? 「ま、何か思い当ることでも出てきたらすぐに教えて。できるだけ力になるから」 そんな美幸の様子に気づいたものの、彼女が何も言わないうちは、早妃子からこれ以上働きかけることはできない。 「六嶋主任」 並んで階段を下りた後、廊下の角で早妃子は同僚に呼び止められた。 「あ、私先に戻っていますから」 そう断った美幸は何とか自分の席に戻るなり、椅子にへたり込んだ。 見ると、ショックで手が震えている。 あの雨の日、一夜の関係を持った男性が、自分を探している? どうやってここを探り当てたのかは分からないが、彼は確実に自分に近づいてきているように思えた。 美幸にすれば、行きずりの男性に抱かれたことなど、できることなら忘れ去ってしまいたいくらいなのに、なぜだか彼は執拗に自分を探そうとしているらしい。 「どうしよう」 彼女は気付かなかったが、係長や早妃子の話では、彼……榊はこの会社に来ていたということだった。それは即ちこちらがどれほど顔を合わせないよう気を付けても、どこかでばったり鉢合わせなどという事態が、これからも起こり得るということに他ならない。 派遣会社に頼んで、新しい仕事先を探してもらわなければ。 この会社は居心地がよく、辞めるのは惜しいが、背に腹は代えられない。それに、もし自分のしでかしたことがバレた時、仲の良い同僚たちに何と思われるかと思うと、美幸は恥ずかしくてとてもこのままこの会社にいることはできなかった。 だが、とにかく今は思い悩んでも仕方がない。 とりあえず目の前のことをこなそうとするが、気もそぞろで仕事が手につかない。午後からの彼女は、美幸にしては珍しい凡ミスを連発し、萌にも不審がられてしまうほど落ち着きを失っていた。 そして5時30分。やっと終業のチャイムが鳴った。 もう今日はこれ以上会社にいても仕事になりそうにない。 そう思った美幸は、早々に帰り支度をすると、皆に先んじるようにして会社を後にした。 「あれ?尾藤さん、もう帰っちゃったんですか?今日はいつもよりも早いですね」 お使いから戻ってきた萌が、すでに片付いた美幸のデスクの方を見て言った。 「ほんの数分前にね。急いでいたみたいだから、何か用事でもあったんじゃない?」 部長に呼ばれてからというもの、何となく取り乱した様子の美幸を気にしていた早妃子だが、とりあえず今日のところは何も言わずに彼女を帰した。 あの分だと何か思い至ることがあったに違いないが、彼女の方からそれを教えてくれないと、実際のところこちらとしても手の打ちようがないのだ。 また何か事態が動けば、彼女なりに尾藤を援護しなければならないだろうけれど。 「あ、そうそう、今日も来てましたよ、例のカリスマさん。通用口の外で張り込んでました。『毎日大変ですね』って声を掛けたら、苦笑いされちゃって」 「えっ?今日も来てるの?榊氏」 「はい。今日はなぜか裏の社員用の、通用口の方に……って、どうしたんですか先輩、何かあったんですか?」 萌の問いかけに答える余裕もなく、早妃子は顔色を変えて立ち上がると、椅子の背に掛けてあったカーディガンを羽織るなりオフィスを飛び出した。 そして帰宅しようとする人を障害物さながらに交わしながら、全速力で廊下を駆け抜ける。 「まずいわね。もしかして、ばったり?」 階段を駆け下りた早妃子は、走りにくいサンダルに苦労しながらも、一目散に通用口の方へと走ったのだった。 HOME |